名古屋地方裁判所 昭和43年(ワ)1918号 判決
原告 水野紀代子
右訴訟代理人弁護士 竹下伝吉
同 山田利輔
右竹下訴訟復代理人弁護士 青木仁子
被告 大島里美
右訴訟代理人弁護士 大橋茂美
右訴訟復代理人弁護士 村橋泰志
主文
被告は原告に対し別紙目録記載の建物を明渡しかつ昭和四一年六月一日から右明渡済に至るまで一ヵ月金二、四〇〇円の割合による金員を支払え。
原告のその余の請求を棄却する。
訴訟費用は被告の負担とする。
事実
一、原告訴訟代理人は「被告は原告に対し別紙目録記載の建物(以下本件建物という)を明渡し、昭和四一年六月一日から同四三年六月一六日まで一ヵ月金三、二〇〇円の割合による金員、同月一七日から右明渡済に至るまで一ヵ月金一万五、〇〇〇円の割合による金員を支払え。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決並びに仮執行宣言を求め、被告訴訟代理人は「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求めた。
二、原告訴訟代理人は請求の原因として次のとおり述べた。
(一) 原告の先代水野すずは終戦直後頃から期限の定めなく、本件建物を被告に賃貸していた。
(二) しかして原告の先代水野すずは昭和四一年五月頃、被告に対して右賃料を昭和四一年六月一日から一ヵ月金三、二〇〇円に増額する旨の意思表示をした。
(三) 被告は右の増額請求に対し、内金二、四〇〇円まで増額することに同意し、右金額を供託して、原告にその旨を通知した。
したがって、本件建物の昭和四一年六月分以降の賃料は一ヵ月金二、四〇〇円の範囲で約定賃料ということになった。
(四) しかるに被告は同年七月分から同四二年一一月分までは一ヵ月金一、一二五円宛を賃料として供託しており、更に同年一二月分から同四三年四月分までは一ヵ月金一、二二五円を供託した。
(五) そこで原告は昭和四三年五月九日付催告書により被告は前記のとおり供託しているが、借家法が改正されたことでもあるので、値上げ分については裁判で確定することとし、それまでは従来通りの賃料額を受領するから約定の賃料を精算のうえ、昭和四三年五月一六日までに支払うべき旨を催告した。
(六) これに対し被告は昭和四三年五月一五日付内容証明郵便により原告が右の書面で催告した家賃の追加分は実は統制令に違反するものであるけれども将来これ以上値上げを請求しないことを条件とされるものならば一応元の賃料額を供託するから受領してほしい旨を回答した。
そして被告は右の回答と同時に昭和四一年七月分から同四三年四月分までの差額であると称して金二万七、五五〇円を供託しその旨を原告に通知してきたのである。
(七) しかし被告の右の弁済供託は、原告に対して債務の本旨に従った現実の提供がなされていないから弁済としての効力がない。
すなわち、原告において昭和四三年五月九日付の書面で被告に対し従来の賃料額を受領するから持参するように催告したのであるから、右の時点では原告は受領拒絶をしていないことがあきらかである。
そして家賃増額訴訟の成否は別として、被告は原告において値上げ請求を放棄しなければ被告の供託金は受領できないような条件を付しているのであるからこれは債務の本旨に従った供託ということはできない。
(八) なお被告は本件建物について地代家賃統制令が適用されるとして統制家賃として一ヵ月金一、一二五円を供託していた期間があったが、被告のこの計算は誤っており適正な統制額は別紙計算書のとおりである。
(九) そこで、原告は被告に対し昭和四三年六月一五日付書留内容証明郵便をもって被告が右催告期限までに債務を履行しなかったことを理由として、本件賃貸借契約を解除する旨の意思表示をなし、この意思表示は翌日被告方に到達した。したがって本件賃貸借契約は右同日解除された。
(十) 仮に右の主張が理由なしとするも、被告は原告に対して本件建物を原告に無断で改造しないことを約束しておきながら昭和四〇年頃原告に無断で、本件建物の玄関の横に約半坪の便所を設置し勝手場を洋室に改造した。
よって原告は被告の右不信行為を理由として本訴状(昭和四三年六月二九日に被告方に到達した)により、本件賃貸借契約を解除する旨の意思表示をした。
(十一) よって原告は被告に対し本件家屋の明渡並びに請求の趣旨に記載した未払賃料額及び解除の効力が発生した後は賃料に相当する損害金の支払を求める。
三、被告訴訟代理人は答弁及び抗弁として次のとおり述べた。
(一) 請求の原因(一)(二)の事実は認める。
(二) 同(三)(四)の事実中被告が原告主張の金額を供託したとの事実は認めるが、その余の事実は否認する。
(三) 同(五)(六)の事実は認める。
しかして原告の右の催告は、本件賃料を月額金三、二〇〇円に増額することを前提とし、増額訴訟の判決が確定するまでの間は従前の賃料額を右増額賃料の内金として受領する旨の催告であるから、被告としては受け入れることのできないものであった。そこで被告は原告が主張するように回答して、右の催告の金額を原告に対する賃料全額の弁済金として供託したものである。
(四) 同(七)の事実は否認する。
被告は、右の賃料の供託について原告が還付請求を受けるについて反対給付を求めたわけではないしまたこれを原告が受領するについて何らの手続上の支障もなかったものである。賃料増額請求に対する確定判決があるまでは従前の賃料額を賃料全額として供託するのは当然である。
(五) 同(八)の事実は否認する。
(六) 同(九)の事実中原告主張の日時に解除の意思表示がなされたとの事実は認めるが、その余の事実は否認する。
(七) 同(十)(十一)の事実は否認する。
(八) 仮に被告の供託について若干の問題があったとしても、本件建物は戦前に建築されたものであって、その床面積が五六・一九平方メートルにすぎないから、地代家賃統制令の適用のある建物であってその統制額は一ヵ月金一、一二五円であった。
したがって原告の増額請求はそれ自体違法であり、原告が被告の弁済供託をしている事実を知りながら賃料増額の調停あるいは訴訟手続を経ることなく、賃料不払を理由に、本件賃貸借契約を解除することは信義則に違反するものであり、そうでないとしても解除権の濫用であって無効である。
四、原告訴訟代理人は「被告の抗弁事実は否認する。」と述べた。
五、証拠関係≪省略≫
理由
一、請求の原因(一)(二)の事実及び同(三)(四)の事実中被告が原告主張の金額を供託した事実並びに同(五)(六)の事実は当事者間に争いがない。
二、そこで被告のなした弁済供託の効力について審案する。
(一) 前記のように原告は被告に対して昭和四三年五月九日付催告書により「借家法が改正されたことでもあるので、値上げ分については裁判で確定することとし、それまでは従来通りの賃料を受領するから約定賃料を精算のうえ、同年五月一六日までに持参すること」を催告しているのである。
そして右にいうところの従来通りの賃料とは一ヵ月金二、四〇〇円であることが弁論の全趣旨により明白である。
そして右の原告の催告に対して被告は原告が催告した賃料は地代家賃統制令に違反するものであるけれども将来これ以上値上げを請求しないことを条件とするならば一応右の賃料を供託するから受領してほしい旨を回答して、右の差額に相当する金二万七、五五〇円を供託したのである。
(二) しかして被告が右の弁済供託をなした際、原告に対して現実の提供をしていないものであることは弁論の全趣旨により明白であり、≪証拠省略≫によると本件賃料は持参債務であったことが認められ、右認定に反する証拠はない。
ところで借家法七条二項は「借賃ノ増額ニ付当事者間ニ協議調ハザルトキハ其ノ請求ヲ受ケタル者ハ増額ヲ正当トスル裁判ガ確定スルニ至ルマデハ相当ト認ムル借賃ヲ支払フヲ以テ足ル……」旨を規定している。
右の規定は借家法の昭和四一年法律第九三号による改正の際に新設された規定である。そして借家法が右のように改正された理由は従来家主が賃料の増額請求をなし、これに応じない借家人に対して増額請求をした家賃を支払わないことを理由として、賃貸借契約を解除し、建物の明渡を求めるという事件が多かったので家主の借家人において増額賃料を支払わないことを理由とする解除権の行使を禁ずることにあったものと解するのが相当である。
(三) したがって本件においては、原告としては本訴請求の前提として家賃増額請求の訴を提起すべきであったと解される。
しかし本件においては家賃の額について当事者間に紛争があったものであるところ、原告は前記のように昭和四三年五月九日に同四一年六月頃に当事者間で合意された賃料金二、四〇〇円で計算した未払賃料を支払うよう催告したのであるから、被告としては、借家法七条二項民法四九三条により債務の本旨に従い現実に右の賃料を原告に対して提供すべきであったといわなければならない。
(四) しかるに被告は、右の現実の提供をすることなく昭和四三年五月一六日に、同四一年七月分から同四三年四月分までの差額として金二万七五五〇円を供託したものであることが≪証拠省略≫によって認められる。
しかして債権者において受領を拒絶した場合において、債務者としては口頭の提供をして債務不履行の責を免れるか、若くは供託をして債務を免れるかの選択をなし得るものであり、これが供託制度の目的に適するものというべきである。
ところが本件においては昭和四三年五月九日の時点で債権者である原告は、一ヵ月金二、四〇〇円の割合による賃料の受領を拒絶しているものではないことが≪証拠省略≫により明らかである。
(五) また≪証拠省略≫によると、被告は本件建物について地代家賃統制令が適用されることを知っていたこと、被告は本件紛争について弁護士ではないが法律に明るい人に相談していたことが認められ、他に右認定に反する証拠はない。
右の認定事実によれば被告としては仮に原告から家賃増額請求の訴訟が提起されたとしても本件家賃が原告の主張どおりの額に増額されるはずがないということが当然わかったものであると推認するのが相当であり、右認定判断に抵触する≪証拠省略≫は採用しがたい。
(六) 以上の認定判断によれば被告がなした前記弁済供託は原告に対して現実の提供をしないでなされたものであり、かつ原告が受領を拒絶していないのであるから弁済としての効力がなく、無効であるといわなければならない。
三、そして原告が昭和四三年六月一六日に被告に到達した書留内容証明郵便をもって本件賃貸借契約を解除する旨の意思表示をしたことは当事者間に争いがない。
被告は原告の右解除権の行使について信義則違反ないし解除権の濫用である旨を主張している。
しかし二における認定判断に照すと、原告の右解除権の行使が信義則に違反するものということはできない。また本件解除権の行使が社会生活上到底認容できないような不当な結果を惹起するとか或は被告に損害を加える目的でのみなされる等公序良俗に反し道義上許すべからざるものであることを認めるに足る証拠はない。
そうすると原告の右解除権の行使はその効力を生じ、本件賃貸借契約は昭和四三年六月一六日の満了をもって解除されたものであるといわなければならない。
したがって原告の本訴請求中本件建物の明渡を求める部分はその余の点について判断するまでもなく理由があるから正当として認容すべきである。
また被告は原告に対して昭和四一年六月一日から同四三年六月一六日まで本件建物の賃料として合意された一ヵ月金二、四〇〇円の割合による金員を支払うべき義務がある。
次に同年六月一七日から被告が原告に対して本件建物を返還しないために、原告は賃料に相当する損害をこうむっているものということができる。しかして原告は右の金額は一ヵ月金一万五、〇〇〇円であると主張しているが、右を認めるに足る証拠はない。
しかし右に認定判断したように昭和四三年六月当時の本件建物の賃料は一ヵ月金二、四〇〇円であったのであるから、原告は少くとも右の金額に相当する損害をこうむっているものということができるのである。
四、してみれば被告は原告に対して本件建物を明渡し、かつ昭和四一年六月一日から同四三年六月一六日まで一ヵ月金二、四〇〇円の割合による本件建物の賃料及び同月一七日から右明渡済に至るまで一ヵ月金二、四〇〇円の割合による賃料相当の損害金を支払うべき義務があるから、原告の本訴請求は右の限度で正当として認容し、その余は失当として棄却し、なお仮執行宣言は相当ではないからこれを付さないこととし、民事訴訟法八九条、九二条但書を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 高橋爽一郎)
〈以下省略〉